公平・公正な市政をめざして、市民の声と力で政治倫理条例の実現を
八王子市政治倫理条例の制定をめざす議員の会
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市民集会・市民の声
 1.第3回市民集会のご案内  3.第1回市民集会のご報告 - 廣瀬克哉先生講演録
 2.第2回市民集会のご報告  4.八王子市議会議員へのアンケート結果
 ●第3回市民集会のご案内
会場案内
自民党と公明党が年末に対案を出しましたが、どんな内容なのか。「対案」の問題点とこれからの議会審議はどうなるのか、議員の会の活動と考えをお話しする市民集会を開催します。ぜひ、ご参加ください。

 と き: 1月24日(土)開場18:15 開始18:30~
 ところ: 八王子市学園都市センター・第5セミナー室
      (東急スクエア12F)
       JR八王子駅北口徒歩2分/京王八王子駅下車徒歩5分
 資料代: 200円

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 ●第2回市民集会のご報告
 11月15日(土)夜、第2回市民集会を学園都市センター第5セミナー室で開催したところ、67名が参加し、
臨時のイスを追加するほどでした。

 山口和男議員が開会あいさつを行い、「日経新聞東京版でも報じられ、八王子以外の住民にも大きく注目
されている」とこれまでの経過を報告。

 両角穣議員は、9月の総務企画委員会の審議の内容を報告。続いて井上睦子議員が資料をスクリーンに
映しながら、委員会に提出する修正案の内容と考え方を説明、山越拓児議員が補足として、修正案に盛り
込まなかった点について説明しました。

 また、小林弘幸議員が「傍聴席を増やすなど委員長としてできることをしてきた。引き続きみなさんのご協力
をお願いしたい」と呼びかけました。

 この後、参加者から「修正案をまとめるまでの経過を詳しく聞きたい」、「選挙のときにハガキを送ってきた議
員に条例案に賛成してほしいと訴える手紙を出した」、「13人の議員が一致団結して取り組んでいることが大
変心強い」などの質問や発言がありました。質問や要望に対しては、議員の会から小林、山越、井上、上島、
両角の各議員が答えました。

 八王子市政治倫理条例制定を実現させる市民の会の代表世話人が発言し、条例の実現をめざして「要請署
名、ニュースに載せる市民の声を紹介するためのアンケート、活動を支えるカンパにご協力を」と呼びかけ、参
加者の大きな拍手を受けました。
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 ●第1回市民集会のご報告-廣瀬克哉先生講演録
○司会
 続いて講演に入りたいと思います。
 お話をいただきますのは法政大学法学部広瀬克哉教授です。
 広瀬教授は行政の中における専門技術のコントロールなど、行政学が専門と伺っております。自治体の議会改革フォーラムの代表、日本行政学会理事など、多数の役員も勤めており、ご活躍でございます。著書も多数ございます。ぜひ皆さんもご覧になっていただければと思います。

 それでは、広瀬克哉先生をご紹介いまします。よろしくお願いいたします。

○広瀬克哉先生
 みなさん、こんばんは。ただいまご紹介いただきました法政大学の広瀬と申します。立ち見も出ているという大変な熱気で印象深くみておりますが、きょうは30分ほど時間をいただきまして、政治倫理条例について、なぜ必要か、また、その倫理条例の中身として何が必要なのかということについて、政治倫理条例がいつごろなぜ生れてきたのか、その初期から現在までの間にどういう点で充実してきたのかをご紹介しながらお話をさせていただきたいと思います。

 すでに八王子市としての倫理条例の案を今ご説明になりましたので、政治倫理条例の内容については、すでに具体的な最新の案をご覧いただいているわけです。そのため話の順序が前後する感じもありますけれども、そこはお許しをいただきたいと思います。

▼資産公開から始まった政治倫理条例
 政治倫理条例という条例が日本の自治体で制定された直接のきっかけは大阪府の堺市においてです。汚職事件が起きたのですが、辞職せず居座った議員がいたことをきっかけとして、市民の直接請求運動が展開され、1983年に日本で初めての政治倫理条例が誕生しました。これが政治倫理条例の始まりなのです。

 当初は資産の公開によって不正な蓄財をしていないかどうかを確認することが基本でした。当初は政治家本人だけの公開から始まりましたが、それだけでは家族名義などで抜け道があるということで、徐々に資産公開の対象を広げていくというような展開がありました。

 この初期の段階から自治体でいろいろな問題が起こるたびに、起こった所で、こういうことの再発を防止するためにはどうしたらいいかということで、先行をした条例を参考にしながら、それでは足りないかなと思うところを少しずつ補強をしながら条例が広がってきております。

なぜ政治倫理条例が必要なのか
 このように政治倫理条例が必要とされるような事件が、各地で継続して起こってきた背景には、自治体が地域の経済主体として非常に大きな存在だということがあります。特に過疎地や経済的に条件の厳しい地域に行けばいくほど、自治体が地域では一番大きな経済主体です。最大の雇用主、最大の消費者として、地域経済の中心的な存在になっているわけです。その財源としては中央との政治的なパイプを通して獲得することが多い補助金が相当な割合を占めています。

 国際的に比較しても日本の自治体というのは非常に多くの仕事を担当しています。国と地方をあわせて、政府の仕事に使うお金のうち、およそ3分の2は自治体が支出しています。それだけ自治体の経済的な力も大きいわけです。

 また、自治体が担当する仕事の内容や、それを決めている法令などのルールについても、複雑なものが多く、行政のプロの手で細かな制度に則って実施しなければならないものが中心となっています。

 ところで、この自治体のいろいろな権限を動かすのに、なんといっても力が強いのはやはり市町村長や知事など行政機関の長なのです。行政のトップの方というのはいろいろな面で細かい行政の運用ルールについて決めて行くことができます。たとえば、入札制度は自治体が発注する工事などの契約相手を決める重要なしくみですが、その詳細のルールは行政のトップが決めるものになっています。さきほど八王子市で総合評価制度を入札に取り入れていることが紹介されましたが、その時の評価基準の詳細は市長決裁で決めるルールとなります。

 総合評価制度そのものについては、考え方として間違っているとは私は思いません。工事の質や技術力を考慮して発注先を決めることが望ましい場合も多いと思います。問題は、価格だけによる選択の単純明快さに比べて、総合評価になると評価基準の作り方に、いろいろな要素が入り込んでくることです。たとえば、過去の実績を得点に算入するときに、3年か、5年か10年かによって、どの企業が有利か不利かも変わってきます。いろいろな要素の配点をどうするかも決めなければなりません。絶対的な水準による評価ではなく、順位付けによって1位の企業が2位以下に大きな差をつけられるような評点方法もありますし、技術力や実績が伯仲していればあまり差が出ないような評点方法もあります。

 いずれにしても採点基準はひとつの方式に確定する必要がありますから、何らかの形で確定しなければならないわけです。それを決め手はイケナイということになると仕事になりません。有利・不利を左右する決定をしてはならない、というわけにはいかない。誰かが何らかの形で判断をしてひとつの選択を確定することは、自治体の行政が仕事をしていく上で避けられないのです。しかし、その基準の設定の仕方を通して、意図的に特定の企業に便宜を図るようなことがあってはならないわけです。

 絶対的な権力は絶対的に腐敗すると言う言葉がありますが、知事や市町村長の強力な権限も残念ながら腐敗と無縁ではありません。数年前には「改革派首長」としてそのリーダーシップが高く評価されていた知事や市長が何人も逮捕されるという事件もありました。強力な権限をもっている地位の人が、誘惑に負けてしまうとそういうことが起こりえるのが現実なのです。

 だからこそ、そういう立場にある人は襟を正さなければいけないし、また地方自治法が定めているように、自治体の長や議員は自分(が経営する法人)が直接自治体の仕事を請け負うということは許されていないのです。法律ではみずから請け負うことを禁止しているわけですが、その趣旨は、自分の利益のためになるような形で公的な地位、権限を使えないようにするということです。そう考えると、役員の地位にあったり、支配的な株主であったりはしなくても、いわゆる家業、家族全体として事業を営んでいるというような場合も同様に考えるべきではないかということにもなります。そういうことを考えると、地方自治法が決めている、自分で請け負ってはいけないというのは、本当に必要最低限のナショナルミニマムなのです。

 それは当たり前であって、これに違反したら違法行為ですから、もちろん法的にできないわけですが、法的には許容されている、少なくとも技術的に法的な文面だけの解釈でいうと、許容されているけれども、その法律の考え方に則って言うとちょっとやはり倫理的におかしいのじゃないのかと思える領域が出てきます。それをどうするかという点について、自治体の条例のルールが登場する必要が出てくるわけです。

▼法律と道徳の間を埋める条例
 法律と道徳というのはよく学校の教育の中でも話し合いのテーマにするわけです。

 法律というのは、少なくともこれは裁判にかかれば政府の強制力をもって執行されるものですから、だれがどう考えてもどうしても守らなければいけない基本的には最低限のルールなのです。

 それから道徳というのは基本的には内面の問題で、法律があろうとなかろうと、自分の考え方に照らして、これは公正なことか、これはあるべきやり方かどうかということを考えて、みずから襟を正す、みずからそういうことはおかしいねと思ったらそれをしないようにするということになります。外から決まるルールではなく自発性にもとづく、人の内面によって実現されていくべきあるべき姿、といえるでしょう。これだけで問題が起こらなければ非常にいい世の中だということになるのだと思いますが、現実はそうもいきません。

 倫理に任せておくだけでは足りないけれども、法律によって一律に全部を禁止することが適切とは限らない中間の領域というものがあると思うのです。

 政治倫理の問題については、法律と個人の内面に委ねるべき領域との間に非常に大きなギャップがあるというのが現状だと思います。このギャップを埋めていくための仕組みの一つが自治体立法である条例によって道徳と法律の間を埋めるということです。政治倫理条例というのはそういう性質の条例です。

 法律がなくてもちゃんと襟を正すなり、李下に冠を正さずといいますか、疑惑を招くようなことをしないようにというふうに世の中が動けば大変いいわけです。社会の規模が小さい場合には、条例によって法的なルールを決めるまでもなく、社会的な「常識」の範囲でおかしなことはできない、ということもあるでしょう。

 また、過疎地の小規模な自治体などで、議員や首長と血縁関係があるような企業を排除してしまうと、自治体の仕事の請け手がいないような地域があるかも知れません。そういうところでは、地方自治法の最低限のルールでないと仕事が回らないということがあるかも知れません。そのかわり、小さなコミュニティの公共の仕事から暴利をむさぼったり変なことをしていたら、すぐに周囲の人目につくから、おかしなことはできない。また、地域社会で尊敬されて生きていきたいから、親戚が村長をしているような会社の方が、むしろ自発的に公共の仕事は利益を圧縮してでも割安に請け負うということだってあるでしょう。

 それに対して、人口が何十万というような大都市では、公職にある人の関係の企業以外にも請け負う企業はいくつもあるし、逆に自然発生的な規制は働かない。そういう環境では、自発的な倫理だけに任せるのでは不十分で、どのような場合が「李下に冠を正す」ことにあたるのかを条例などで明文のルールにして、襟の正し方をはっきり確定する方がスッキリし、また、実際に機能することが期待できるわけです。

 だからこそ、法律が一様に決めていないのだけれども、条例で決めることによって、その地域の地域性に合った政治倫理というものを確立していく仕組みづくりというものが求められているのだと思います。

▼チェックの仕組みの充実
 ところで、複雑な制度を運用して仕事をしている強力な自治体の行政ですが、その仕事におかしなことがないかどうか、チェックするのが議会の仕事です。行政をチェックするために我々の代表者としてチェック役として選び出して活動してもらっているのが市議会議員さんなのですが、議員さんたちというのは、普通の市民の代表として選挙で選ばれた人であり、必ずしも専門的な知識や技能を持っているから選ばれたと言う人ではありません。個別には、地方公務員経験がある人や、弁護士や医師などの専門職の資格をもった方もおられますが、それはあくまでも偶々です。

 つまり特殊な技能を持っているから選ばれたというよりは、我々普通の市民からみて、こういう人に任せてチェック役をやってもらったら、普通の人のこともわかっているし、巨大な行政機関である市役所の動きをチェックすることもできるであろうという人を代表選手として送り出しているわけです。

 つまり議員というのは見識あるアマチュアであることが期待されているわけですが、見識や常識があったとしても、現代の巨大になった大行政機構、複雑な行政手続、国と自治体をつないだお金の流れだとか、いろんな仕組みを全部熟知した上で、その中でおかしなことがないか、全部きっちりチェックできるかというと、限界があるというのは実情でしょう。

 とすると、議会がチェック機関であるということを、議員自身が細かなチェックまで自分で担当せよ、と理解するのはあまり適切ではありません。チェックの責任を負っている議員さんたちの判断によって、必要に応じて公認会計士や弁護士などの専門家で構成された制度や組織をつくって、その組織によって必要なチェック機能を確保するということも必要になってきます。

 この面でも、法律が設置を義務づけているのは必要最低限の範囲にとどまっています。監査委員の仕組みとか、あるいは外部監査という仕組みも最近では入っていますけれども、これはあくまで、まさに地方自治法とか、地方財政法とか、国が決めた、法律と道徳の話でいくと、必要最低限の法律に照らしてどうだったかというのをチェックする役目なのです。また、これらのチェック機関は、それこそ最低限の法的な基準に照らして判断することを基本的な任務としています。さきほど挙げた、法律と道徳の間をカバーする条例のルールに照らしたチェックということでは、法律が設置していないチェック機関を置くことが必要になってきます。こういう仕組みの整備もまた、政治倫理条例の担うべきやくわりの一つなのです。

 こういうことを通して、ちゃんと透明性を確保して公職の責任にある人たちがどのように活動していて、おかしなことがないのかどうかということが第三者から見ても、あるいは市民も目から見てチェックできる、目が届くような仕組みをつくり、それによって信頼というものを確保するということが求められているわけです。

▼国の法律による資産公開とその限界
 先ほど政治倫理条例が1983年に堺市で始まったと申し上げました。それがだんだんと進化をしてきているのですが、途中に幾つか節目があります。一つの節目は資産公開に関する法律の展開です。今、閣僚だけではなく国会議員も資産の公開が法律に基づいて行われています。年に1回報道されますので、お目にとまると思うのですが、あれが制度になったのは1992年のことです。国会議員の資産の公開が法律によって定められました。

 この法律は国会議員が直接の対象ですが、それに併せて地方自治体の長についても資産の公開の制度を95年までにつくりなさいということになっておりました。市長の資産公開については既存の条例に則ってやりますという話がありましたけれども、これはそれに基づいて整備されたわけです。

 ですから、日本の自治体では、知事や市町村長の資産の公開は法律に義務づけられていますから、すべてやっているわけです。ただし、公開する範囲については自治体によって違いがあります。

 本人の資産公開だけで十分なのだろうか、ということは国会議員についても指摘されていますが、知事、市町村長についても同じことがいえるわけです。配偶者や同居の親族などの名義の資産が対象外とされていて、実効性のある制度といえるだろうかということです。国の法律は今もそのままなのですが、近年いくつかの自治体では、政治倫理条例の中で配偶者などの名義の資産にも公開を義務づけるような展開が見られます。

 ただ、ここは自治体立法ですから、自治体ごとにどういう基準にするかというのはそれぞれが自由に決められますから、これまで定められてきた中でさまざまなレベルのものがあります。数百、全国の自治体の中で政治倫理条例は制定されていますが、見る人がご覧になれば、これはしっかりしていて、こんな条例があれば変なことはまずできないね、安心だねという条例もあれば、倫理条例を持っているということだけが言いたかったのでという条例もあります。

 資産公開の対象は本人名義のみ、請負辞退などのルールはまったく定めていないし、チェック機関は一応あるものの、市長さんが好きな人をお選びになればよくて、どういうときにチェック機関が作動するかということについては、議会の議決が必要であるなど、できるだけ限定的に規定されているような条例もあります。

 見た目には、条例の構造としては、先ほどご紹介のあったものと比較的似たように見えるのですが、内容の水準が様々だということです。一番の基礎になる資産公開制度については対象と範囲が問題です。政治倫理審査会は当然設置すべきものですが、審査会がどういうときにどんな権限を持ってチェックの仕事ができるかが問題です。とくに市民の審査請求の権利が大事なポイントです。

 それから、やってはいけないという行為の対象がどこまで広げられているかも問題です。よく読むと、地方自治法その他法律で違法にならないことであったら実は何もカバーされていないという条例もあります。法律と道徳の間を埋めるということを先ほど申し上げましたが、中身は法律と同じということであれるなら、新たに条例をつくる意味がどこにあるのか。政治倫理条例を作ったぞという政治的なポーズに過ぎないという場合もありそうです。

 このような観点でランクわけをしていきますと、残念ながら、ABCDランクで言いますと、Dランクの条例も少なくはないのです。しかしAランクの条例、非常に厳しく襟を正すような条例も既に先行自治体ではつくられてきております。

▼どんな条例が必要なのか
 政治倫理条例に求められる柱の第一は、実質的な透明性を確保するということに尽きます。

 どこまで透明にするのかということで、よく議論になるのはプライバシーです。公職についているとはいえ、プライバシーを丸裸にしなくてはいけないのか、という議論です。公職とは直接の関わりのない趣味嗜好や、信仰にかかわる問題などについては、公的に地位に就いている人であっても、プライバシーを尊重しなければなりませんが、公職の執行にかかわりのある範囲については別です。一般人であれば個人情報として保護される内容であっても、一定の範囲で公開すべきということがあるはずです。特定の利害関係の存在や資産などは、プライバシーにも一定の制約を受けるべき範囲に該当するものといえるでしょう。お金に関することでいえば、同一家計の方というのは経済的にひとつの単位ですから、資産公開の目的に照らせば、自ずとそのプライバシーにも制約がかかると考えるべきでしょう。

 公職に就く方というのは、多くの場合には地域社会のなかでさまざまな経済的社会的な活動を展開してきた上で就かれるわけです。それは当然のことなのですから、そういう活動のなかで形成された特別な利害関係などについてはあらかじめ公開し、その上で資産公開を通して不適切な利益を受けたりしていないことを確認できるようにする。このような透明性の確保の中で公職者が行動することによって、さまざまな社会的経済的な関係の中にある人が公職についても、その地位を私的な利益のために使うことがないことが担保される。政治倫理条例はそんな環境を作ろうとするしくみなのです。

 大分県の教員採用の問題から派生して、教員などの採用試験の結果を議員さんなどに早く報せていた、というような実態が明るみに出ました。結果を早く知りたいというだけであって、採用するように圧力をかけたわけではない、お金を受け取ったり、渡したりもしていない、というような弁解をされていたようです。ただ、最強の権力というのは、命令して人を従わせるのではなく、命令するまでもなく、相手が権力者の求めていることを配慮して行動することだ、というのが古くからの政治学の見解です。

 こういう権力行使を防止するのはなかなか困難です。何しろ「こうしろ」という命令が出ませんので、圧力をかけたという証拠が見えなくなってしまうわけです。「こんどお世話になっている人のお子さんが教員試験を受けるのだけれど、ちょっと早く結果を報せてくれないかな」という働きかけは、文字通りに受け取れば、合格させてくれと言う圧力ではないかも知れませんが、言われた側にとっては「合格させてくれ」というメッセージになるかも知れません。
そこで、こういう要請を含めて、政治家からの接触があったらその内容を必ず文書に起こしてファイリングすることを、自治体職員の仕事のルールにするという方法があります。文書にしてファイリングするということは、情報公開の対象になると言うことです。誰が、どんな風に有形無形の「圧力」をかけたかが、公開されてしまうというわけです。

 これはいくつかの自治体で実際に行われていることなのですが、それによって「口利き」が大幅に減ったそうです。この制度をつくった次の選挙で、旧いタイプのベテラン議員が続々と引退したという落ちもついたと言います。透明性を確保することによって、有形無形の圧力による特定の利害関係の便宜を図ることを抑制することができた一例です。

 それから李下に冠を正さずということで言えば、一番はっきりするのは請負等の辞退です。よくこれで営業の自由に抵触するのではないか云々ということをおっしゃる方がいますが、そういうことで言えば、本人が営業をしている、本人が経営している会社については地方自治法が明確に禁止しているのです。営業の自由よりも公共の利益が優先するという考え方にもとづいた法的ルールです。営業の自由を制約してでも、法的に請負禁止ということで対応しなければならない領域があるということを国の法律も採用しているわけです。その規程の精神を実質的に活かそうとするなら、請負禁止の範囲が公職者本人の経営する企業に限定するのがふさわしいのか、家族が経営する企業まで含めるのがふさわしいのか。これは倫理条例の立法政策上の判断に委ねられるべきもので、制約をかけること自体が憲法の保障した権利を侵害するものと見るのは適切ではありません。

▼チェック機能の発動権
 それから政治倫理条例のもう一つの柱は、チェック機能の発動に関することです。政治倫理条例というのはそういう名前の条例をつくったらそれで自動的に機能するというものではありません。透明性を確保してもだれも見なければ機能しないわけですし、チェック機関があってもだれも発動しなければ効果が現れません。このチェック機関の調査などを発動するスイッチをおす権利をだれが持っているかが大切です。議員や首長など公職に就いている人たちは、チェックされるべき対象なのですから、そういう人たちの決定がなければチェックができないようではおかしいのです。市民が直接チェックの発動ができることが不可欠です。こういう点で疑惑があるから、これについて調べてほしいということを、一人一人の市民が請求できることが大切なのです。

 市民がおかしいと思ったときに、一人でも申し出ればチェック機関がちゃんと確認してくれる。そうではなく、議会による議決が必要などという仕組みになっていると、チェックを受ける側の立場で、仲間をかばうような行動が出ないとも限りません。チェックというのはそもそも、誰か少数の人が気づいて行動を起こすというような性質をもっています。政治倫理条例によって政治倫理審査会というようなチェック機関が置かれることは一般的なのですが、その機関がどういう場合に活動するのかについての規程はとても大事なのです。

▼責任追及のあり方
 3つめの柱は、おかしなことがあった際にどのように責任追及をするかということです。条例に基づいた措置が存在するかどうかということです。選挙によって選ばれた公職者の地位というものは、非常に重いものですし、法令が政治的な反対派に対する弾圧手段として使われたことも歴史的な経験の中にはあったわけですから、地位を強制的に失わせることには慎重でなければなりません。しかし、その一方で、法律による身分保障が社会的な常識に照らして許容しがたい場面もまた出てきます。事実関係が明白と思われるような汚職事件で摘発されても、有罪が確定するまでは自ら辞職しようとはしないというような場面が典型的な例でしょう。

 そういう時に、法的な強制と、本人の倫理的な身の処し方の間のルールの必要性が生じます。辞職の勧告など、強制力はないけれども明確な政治的圧力としての措置を、一定の場合には必ずとることをルール化しておくのです。辞職勧告の決議などの措置ということになります。仲間内のかばい合いを抑制し、一定のルールに基づいて問題を起こした人物に一定の身の処し方を促す。それに本人が従うことが期待されるわけですが、仮に従わなかったとしても、本人以外の公職者が一定の見識を示すことを通して、有権者、市民に対する信頼回復の一助とはなり得ます。

 また、起訴されたり、下級審で有罪判決が出たりした場合にも辞職しないという選択をした場合には、その本人に対してその行動について公に説明の義務を課すというような制度も先行条例の中には盛り込まれています。

 いずれにしても、政治倫理条例に基づいて、問題行動に対する責任追及の義務が、当事者以外の公職者にも共有されることによって、自治体に対する信頼は守られていくことになるのです。こういったような要素を入れていくことによって数多い政治倫理条例の中でも神棚に飾るタイプではない、ちゃんと機能し得るような条例になり得ると思います。

 今日は主催の議員のみなさんによる策定の途中にある政治倫理条例案に対するパブリックコメントの場の一つと位置づけられます。この条例案は、今日この会を開催された13名の議員のみなさんのが取り組んでおられるものですが、政治倫理条例というのは議員だけで作れば良いというものではないと思います。有権者、市民の世論に応じて作られていくということが大切です。今日はそういう参加の場としても重要な機会ではないかと思います。この機会に大いに市民の皆さんからも議論を提起していただいて、しっかりと機能する有効な政治倫理条例を作られていくことを期待しております。

廣瀬克哉(ひろせ・かつや)
法政大学法学部教授。行政学・自治体(行政の中における専門技術のコントロール)が専門。自治体議会改革フォーラム代表のほか、日本行政学会理事、日本自治学会理事、自治体学会運営委員、編集部会長などを務める。近年の主な著書に『岩波講座 自治体の構想1 課題』(共著、岩波書店、2002)、『自治体改革10 情報改革』(編著、ぎょうせい、2005)など多数。
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